Samayaでは賛助会員を募集してい
ます。入会申込書をダウンロードし、
印刷して必要事項をご記入の上、
郵送、もしくは、FAXしてください。

入会規約はこちら (PDF: 87KB)

【PDF: 94KB】

祈りの風景 祈りの風景

第十回 転生 -てんしょう-

湯通堂 法姫

 勅撰和歌集『拾遺和歌集』には、奈良時代に二人の高僧が取り交わした和歌が収められている。

   霊山りょうぜんの釈迦の御前みまえに契りこし 真如しんにょ朽ちせず あひ見つる哉  行基
 返歌
   迦毘羅衛かびらえに 共に契りしかひありて 文殊の御顔みかお あひ見つるかな  婆羅門僧正

 婆羅門僧正ばらもんそうじょうとは、天竺僧・菩提僊那ぼだいせんなを指す。インドのバラモン階級の出身で、中国の五台山において仏教を学び、日本人留学僧達の強い要請に応じて来日した菩提遷那を、聖武天皇は難波に行幸みゆきして出迎えた。  この時、天皇に随行したのが、布施屋ふせやの設置や架橋など、教化活動と社会事業に尽力し、民衆から菩薩と崇められ、聖武天皇からも厚い帰依を受けた行基であった。
 「霊鷲山りょうじゅせんで説法される釈尊の御前で貴方との再会を誓いました。その約束を違えることなく、再びこうしてお逢いできました」と語りかけた行基に対し、菩提僊那は、「迦毘羅衛の釈尊の御前で、互いに再会を誓った甲斐あって、再び貴方の御顔を見ることができました。」と応じている。
 霊鷲山も迦毘羅衛も、釈尊が法を説いたといわれる仏教の聖地である。初対面の二人の僧は、遠い過去世、釈尊の説法を聴き、共に修行した菩薩であった。行基に対し「文殊の御顔」と讃えた菩提遷那には、文殊菩薩と一対で釈迦如来の脇侍わきじとなる普賢菩薩としての自覚があったのかもしれない。釈尊の説法に浴した二人の菩薩は、来世、人として生れ、再び出逢って、共に衆生済度しゅじょうさいどの為に尽くすことを誓い合ったという。
 来日後、菩提遷那は奈良の大安寺に住し、修行と布教活動を行った。とりわけ『華厳経けごんきょう』に精通し、東大寺大仏造立ぞうりゅうに教義的裏付けを与え、開眼供養会かいげんくようえでは勅命を受けて大導師を務めた。
 行基は、大仏開眼を見ることなく天平勝宝二(749)年に遷化せんげするが、死の直前まで弟子達を率いて大仏造立の為の勧進かんじんと教化活動を行い、多くの民衆が「一枝の草、一把の土」をもって、これに従ったといわれている。二人の菩薩の誓いは、三世を超えて、瞭明期の日本の地で、聖武天皇の鎮護国家ちんごこっかの祈りの下、東大寺盧舎那仏造立に結実するのである。

 東大寺は、幼くして亡くなった聖武天皇の皇太子の菩提追修のために建てられた金鐘山寺を起源とし、大和国金光明寺(国分寺)を前身とする日本の総国分寺である。三論、成実、法相、俱舎、華厳、律の六宗の宗所が設けられ、仏教の教理研究に大きな役割を担った。平安時代には天台、真言を加えた「八宗兼学」の学問寺として、以降の日本の仏教界を牽引する優れた学僧を輩出した。
 聖武天皇が、近江国紫香楽宮しがらきのみやにおいて、大仏造立のみことのりを発したのは、天平十五年十月のことである。『続日本紀』には、自らの薄徳を恥じ、三宝の威光と霊力に頼って、国家の安泰を願い、万代の福業を修して一切衆生の繁栄を祈り、「菩提の大願を発して盧舎那仏金銅像一軀るしゃなぶつこんどうぞういったいを造り奉る」という天皇の言葉が記されている。
 聖武天皇の治世は、藤原氏との政治抗争から生じた左大臣長屋王の変(729年)や、玄昉、吉備真備の追放を奏上して挙兵した太宰少弐藤原広嗣の反乱など、不安定な政局に加えて、天平六(734)年の近畿大地震や絶え間なくおこる旱魃や飢饉、疫病などの天災に悩まされ続けた。
 とりわけ天平七(735)年と九(737)年に大流行した天然痘は、凄まじい猛威をふるい、死者は百万とも百五十万ともいわれた。長屋王の変以降、政権の中枢にあった藤原四兄弟も相継いで罹患し他界した為、朝廷の統治機構は崩壊の危機に瀕した。
 この絶望的な状況の中で、天皇は、全国に国分寺、国分尼寺を造立し、『金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょう』を収めて読誦させる旨の詔勅を発した。天武朝に初めて講ぜられたこの経典には、四天王をはじめとする諸天善神が国土と衆生を守護し、仏法によって疫病や災害、争乱などの国難を逃れ、天下の安寧がもたらされるという鎮護国家思想が説かれている。
 人智をはるかに超えた苦しみは、もはや仏の慈悲に頼るほかにはすべがなく、無謀とも思われる大仏造立の詔も、こうした聖武朝の時代背景を鑑みれば、天皇の苦悩の末の悲願であったと推察される。
 天平勝宝四(752)年四月の盧舎那仏開眼供養会は、欽明天皇十三(552)年の仏教公伝から数えて二百年目の盛儀であった。聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする皇族、貴族達が列席する中、婆羅門僧正菩提僊那が開眼導師を、大安寺の隆尊律師が講師を、元興寺の延福法師が読師を務め、一万五千におよぶ人々が結縁に連なったという。
 『続日本紀』天平勝宝四年夏四月条には、「仏伝東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」と記されており、大仏殿の前庭にはためく絢爛な幡や、次々と奉納される五節舞、伎楽、唐古楽や高麗楽など、華麗で国際的な法会の様子と当時の官人達の感動を文面から読み取ることができる。
 この法会に出仕、列席した万僧の交名(名簿)は、正倉院文書に残されており、開眼に用いられた筆(天平宝物筆)と筆に結んで参列者に結縁けちえんした開眼縷かいげんるは、文治元(1185)年、大仏再建の開眼供養にも使われ、今日なお正倉院宝物として大切に伝えられている。

 東大寺本坊を道場とし、チベット密教の高僧を迎えて観世音菩薩の許可灌頂こかかんじょうを開檀したのは、名残りの花が風に舞う晩春のことである。灌頂阿闍梨かんじょうあじゃりローサン・デレ師は、ギュメ学問寺の101代管長を務め「ミスター入中論にゅうちゅうろん」と渾名あだなされる当代随一の学僧であり、彼はその翌日には帰国して、河口慧海や多田等観が留学したことで知られるセラ学問寺の管長に就任することが決定していた。我が国で最も正統な学問寺である東大寺の一隅において、チベット密教の高名な学僧による灌頂が行われることは、不思議な仏縁の巡り合わせであった。
 許可灌頂とは、本尊が具有する功徳力くどくりきを受者に分け与えることを目的として行われる密教儀礼である。阿闍梨は道場を荘厳しょうごんし、自身の内に本尊・観世音菩薩を生起しょうきさせ、受者に懺悔の心と菩提心ぼだいしんを起こせしめ、本尊の御前に導く。本尊は受者を加持し、菩薩としての利他行りたぎょう実践の方便として、自らの功徳力を授けるといわれている。
 観世音菩薩の本性は慈悲である。慈悲とは慈(他者の幸福を望む心)と悲(他者の苦しみを取り除きたいと願う心)から成り、生きとし生けるものに対する普遍的な慈しみと憐れみの心を因として生じる。幾度もの生死しょうじを繰り返す輪廻の中で、あらゆる生き物が、かつて父であり、母であり、我が子であったかも知れぬ。そう仮定すれば、この世のすべての存在に恩義があり、万物が慈しみの対象となる。
 密教は、瞑想によるイメージトレーニングを重ねることによって心身を安定させ、心の段階を高め、心身ともに仏に近づけてゆくための修行を重視する。阿闍梨の説法によって、今生のみならず過去世にまで辿って自らの悪行を懺悔し、すべての生き物への慈悲の心を生ぜしめた受者達は、菩薩戒ぼさつかい(一切衆生を救済するという菩薩としての誓い)を授けられ、自らも菩薩となって利他行の実践に赴くこととなる。
 この灌頂は、正式には「全悪趣救済ぜんあくしゅきゅうさいの観世音菩薩許可灌頂」と呼ばれ、これを受けた者は地獄や修羅などの悪趣に陥ることなく、来世、再び人間としての生命を得るという。涅槃に入ることを望まず、再び人の身を享けることを願うのは、一切衆生を苦しみから救い尽くさぬ限り休息することはないという盧舎那仏の誓願を果たす為である。
 夕刻、灌頂を受け終えたばかりの受者達は阿闍梨とともに大仏殿を参拝した。この日は初夏と紛うほどの、爽やかな晴天に恵まれた美しい一日であった。中門をくぐり、大仏殿の前庭を進みながら、私は体の奥深くからこみ上げるような懐かしさを感じ、戸惑った。それは、今生の記憶ではなく、遠い遠い過去世につながる記憶のようなものであった。
 東大寺教学執事橋村公英師の格別の御厚意で、百二十名の受者全員が、盧舎那仏の須弥檀に登檀し、礼拝することを許された。阿闍梨と随行の二人の弟子による読経が始まると、皆が誰からともなくひざまずき合掌した。それは厳かで感動的な光景であった。独特の抑揚を持つチベット語の読経と、それに続く日本僧の般若心経に多くの人が唱和し、その声は大仏殿の中で呼応し、天上の楽音がくおんのごとく私達の頭上に降り注いだ。
 仏教は、釈尊の祖国であるインドにも、政治的な棄仏を繰り返した中国、朝鮮にも根付くことなく、遥か東の海の果ての小さな島国に辿り着き、安住の地を得た。仏教という教えを護り、生命をかけて日本にもたらした多くの人々、法灯を絶やさぬ為に人生を捧げた人々、仏教は、こうした多くの菩薩達によってこの国に根付き、千四百年にわたり、日本人の精神文化の中に連綿と受け継がれてきたのだ。
 三人のチベット僧もまた、祖国の地を追われ、亡命を余儀なくされた人々である。ローサン・デレ阿闍梨は一九五九年三月のチベット動乱の際に侵入してきた中国軍と戦った少年僧の一人であった。彼は幼かったため銃を射つことはできなかったが、兄弟子は銃をもって中国軍と戦い、仲間達を守ってインドに逃れ還俗げんぞくした。随行の近侍の弟子は還俗した兄弟子の息子であり、息子が出家し、阿闍梨に仕えることは兄弟子の切なる願いであったという。助法じょほうの若きリンポーチェも、一九八〇年代の初め、仲間の僧侶達と共にヒマラヤを越えてインドに亡命した。別離の時、彼の父は僅か十歳の息子に「たとえ再び今生で会うことができずとも、お前が仏弟子として立派な僧になり、生きとし生けるものの役に立つ身となってくれることが父の望みである。」と告げた。その後、父と子が再び会うことはなかったという。
 今日、彼らの祖国は隣国の蹂躙を受け、多くの寺院が破壊され、僧侶は説法を禁じられ、民衆は信仰の自由を奪われていると聞く。だが、彼らが生命を賭して守ろうとしたチベット密教の教えは、国境を越えて様々な地に利他の種子を落としている。釈尊の祖国が地上から消えてもなお、仏教の教えが国を超えて広がったように、チベット密教の教えが受け継がれる限り、そこに彼らの国は存在するのだ。

 天平の大仏開眼供養会から千二百六十年目の春、東大寺大仏殿でともに祈りを捧げた人々は、おそらく遠い過去世からの因縁に導かれて盧舎那仏の御前に会したに違いない。ある人は砂漠を超え、海を渡って仏典をもたらした来日僧であったかもしれず、ある人は大仏造立の為に奔走した名もなき僧尼であったかもしれず、またある人は造像工事に従事した民の一人であったかもしれぬ。大仏殿の前庭でのあの不思議な感覚は、かつてこの地に生きた日があったことの証しかもしれないと密かに思った。
 限りない慈悲と哀しみを秘めた盧舎那仏の御前で、私は阿闍梨から授けられた真言の一節を心の内で唱えた。
 「願わくは この善行を以って 速やかに この身が仏の力を成就し 一切衆生を余すところなく救い仏の境界に導かせ給はんことを。」
 どうか、今日ともに祈ったすべての人々に幸いがもたらされますように。祖国の大地と民族の信仰を奪われようとしている彼の国の人々に仏の御加護がありますように。そしていつの世にか再び人として生れ、仏法に出逢い、御身の御許に導かれますように。




≪ 一覧へ戻る

HOME | お知らせ | 活動内容 | 法人概要 | お問い合せ | お大師様のことば | 水面の月 | 祈りの風景 | イベント情報 | ブログ「SHOJIN」 | 入会申込書(PDF)