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祈りの風景 祈りの風景

第十一回 献身 -けんしん-

湯通堂 法姫

 『古事記』は、神代かみよにおける天地あめつちの始まりと天つ神たちの伝説、伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの二神による国生みの神話、国つ神の子孫である天皇家の系譜などによって構成された壮大な国造りの物語である。
 和銅五(712)年、稗田阿礼ひえだのあれが誦習していた『帝皇日継』と『先代旧辞』を、太朝臣安萬侶おほのあそみやすまろが書写し、編纂して献上したと伝えられている。
 『帝皇日継』とは、神武天皇から推古天皇までの33代にわたる天皇と皇后、皇子、皇女達の名とその子孫の氏族の系譜を中心に、その治世の主な出来事や出生と崩御の干支、陵墓の所在地などを記したものである。朝廷の語部かたりべが暗誦して伝承し、大葬のもがりの祭儀などで誦み上げる習わしであったといわれる。一方、『先代旧辞』は、国家と皇室の成り立ちや宮廷内の古い伝承をまとめたものである。

 子供の頃の記憶の中で、忘れることができない絵本がある。それは『古事記』の中でも最もドラマチックな倭建命やまとたけるのみことの物語を美しい日本画で描いたものであった。
 倭建命はいみな小碓命おうすのみことといい、第十二代景行天皇の第二皇子であり、第十四代仲哀天皇の父といわれる。少年の頃から並外れた武力と美貌を備えていたが、父天皇の意に反して兄を殺してしまった為に、その粗暴さを疎まれ、九州の熊襲建くまそたける兄弟の討伐を命じられた。
 彼は女の衣装を着て熊襲建の館に忍びこみ、宴に乗じて兄弟を討ち果たした。弟建は死に臨んで、小碓命の武勇を賞嘆し、最も強き者を意味する建の名を譲って「倭建」の名を献じた。その後、出雲に入った倭建命は出雲建を謀って殺し、無事に討伐を終えて都に帰った。
 しかし、父天皇からは労いの言葉はなく、すぐに東方の蝦夷えみし討伐を命じられる。様々な困難の果てに東国を平定して都への帰途につくが、自らの武勇を驕るあまり神の怒りをかって病に倒れ、故郷を目前にしてその短い生涯を終える。彼が死を前に詠った国偲びの歌の哀切さは、日本人の心を深く揺さぶるものである。
  大和は国のまほろば たたなづく青垣 やまこもれる大和し うるわし

   この絵本の中で、なによりも幼い私の心を打ったのは倭建命の妃・弟橘比賣おとたちばなひめの物語であった。相模から上総の間に横たわる走水の海を渡ろうとした倭建命は、軽はずみな言葉を発した為に海の神に行く手を阻まれ、一行は遭難の危機に瀕した。その時、同行していた弟橘比賣は自らを生贄として神の怒りを鎮めるべく、荒れ狂う海に身を投じる。するとたちまちに海は凪いで、倭建命の一行は無事に上総に渡ることができたという。
 荒ぶる波間に入水する弟橘比賣の姿は、神々しいほどの美しさで描かれており、その気高い行為は、子供心にも忘れ難い感銘と衝撃を与えた。幼い私は、その悲劇的な死を迎えた女性が必ずや天に召され、仏様になっておられるにちがいないと確信した。そう父に話した時、父は「どのような理由であれ、自らの意思で入水した者は、決して海から上がることはできない。自分の生命を断つことは罪であり、仏様にはなることはない。」と答えた。
 父の冷たい一言は、幼い私の感傷を打ち砕いた。愛する人の為に自らの生命を犠牲とすることがどうして罪なのか。夫だけでなく舟に乗る多くの人々の生命を救った弟橘比賣がどうして仏と成ることができないのか。日頃、生命よりも大切なものがあると説き、生命を捨てても守らねばならないものがあると教えてきた父が、どうして弟橘比賣の行いを罪というのか。どれほど考えても納得がいかない私は、どうしても父の答えを覆さずにはいられなくて、今度は母に同じ問いをなげかけた。長い押し問答の末、母は私にこう答えた。「弟橘比賣は愛する夫と家来達の為に自らの意思で入水したのだから、たとえ成仏できなくとも、自らの行いを決して悔いてはいないはずだ。その尊い魂は神様に認められて、今は美しい真珠となって海の底に静かに眠っている。」それ以来、真珠は私の好きな宝石になった。

 真珠は、人類が最も早くに出会った宝石といわれている。いくつもの偶然が重なって奇跡的に見出される美しい深海の宝珠は「人魚の涙」や「月の雫」などと呼ばれ、洋の東西を問わず珍重された。アコヤ貝などの貝が、体内に入って吐き出すことができなかった異物を自らの分泌物で包み、幾重にも分泌物の層を重ねて作り出したものが真珠と呼ばれる。微細な異物を核として、交互に積み重なったカルシウムの層とタンパク質の層の干渉効果によって生み出される柔らかな光沢は、硬質な鉱物系の宝石とは異なる真珠の特徴である。それは貝が生命をかけて生み出した美しさであり、古代の人々はその輝きの中に、生命の神秘と自然界の奇跡を見出していたのかもしれない。「ぎょく」と称される陸の宝石に対し、海から生まれる珊瑚や真珠は「たま」と呼ばれ、とりわけ研磨など人の手による加工を許さない真珠は「白珠しらたま」と称して、神話や経典にも登場する宝物とされた。
 古代中国の人々は、真珠を不老長寿の秘薬と信じていたといわれる。それは、八仙人の一人である処女神・何仙姑が真珠と翡翠を粉末にして飲み、真珠からは不老の翡翠からは不死の霊力を得たという伝説に基づくといわれている。
 『法華経』(『妙法蓮華経』)第二十五「観世音菩薩普門品」には、一切衆生の恐怖を取り除く為に、自在に姿を変え、様々な方便を以って済度に赴くという観世音菩薩の功徳力を讃嘆し、無尽意菩薩が真珠の首飾りを捧げたところ、観世音菩薩はこれを二つに分けて、一方を世尊釈迦牟尼に、もう一方を多宝如来を祠る宝塔に供えたと説かれており、真珠は仏の宝物とされた。
 しかし同時に、真珠は哀しい宿命をも併せもつ。自らの意によらず身中に入ってしまった異物を吐き出すことができなかった母貝は、その痛みに耐える為に分泌物でその異物をとり巻き、長い年月かけて美しい海の宝珠にかえる。だがその宝が人間に見出され、貝の体内から取り出される時、貝の生命は終わるのである。それゆえに古代から、胎内に新しい生命を宿し、生命をかけて子を生み育てる女性の守護石ともなり、純潔と母性の象徴とされたのであろう。

   『古事記』にその一代記を記される英雄・倭建命の人生は孤独で悲劇的である。美しく勇猛な皇子でありながら父天皇に疎まれ、勅命によって九州、出雲、そして東国などの蛮族征伐の為に各地を転戦する。それは古代日本における天皇家の国土平定の軌跡でもある。とりわけ東国征伐は苦難の連続であった。
 戦いに明け暮れる日々の中で若き皇子が渇望しつづけたものは、いかに勇敢に戦い、智
略を尽くし、偉大な戦果を挙げようとも、決して与えられることのない父天皇の愛情であった。弟橘比賣は、倭建命のその苦悩を知る人であったに違いない。『古事記』の記述によると、弟橘比賣は
  あれ、御子にかわりて海の中に入らむ。御子は遣はさえしまつりごとを遂げて覆奏したまふべし。
と言い遺し、次の歌を詠んで海中に身を投じたという。
  さねさし 相武の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
 弟橘比賣は数ある后妃の中にあって、東国遠征に従った唯一人の妃である。相模の国造に欺かれ平原で焼き打ちに合った折、倭建命は、伊勢の斉宮を務める伯母・倭比賣から授かった神剣と火打石で危機を逃れる。剣で草を薙ぎ払い、四方から迫り来る火と戦いながら、妻の身を案じ、名を呼んでくれた夫への感謝の言葉を彼女は辞世の歌としたのである。
 夫と共に生死を分かち合った東征の旅は、弟橘比賣にとって苦しくとも幸せに満ちた日々であったに違いない。今生を辞する瞬間に、その幸せな思いを抱いて、夫の任務に殉じた彼女の人生は、ある意味で、女としての冥利に尽きるものであったろう。
 長じて大人になり、幼い頃の父と母のそれぞれの答えの中に、幼い私に対する教えがあったのだということに気付いた。どのような理由があっても、自ら死を選んだ者は決して成仏することはないと言った父は、仏から授かった生命を、決して粗末にしてはならないということを私に伝えたかったのだと思う。また母の言葉は、たとえ永劫、冷たい海の底に眠る運命であろうとも、後悔することのない深い愛と献身が人の世にはあるのだということを私に教えてくれた。人生の途上で、闇夜に迷い、絶望の淵に沈みかけた時、二人の言葉は、一条の月の光となり、今生の命綱となった。

 小泉八雲は、日本人の持つ最も素晴らしい美徳は献身であり、それは神道と仏教、そして武士道という独特の精神文化の中で醸成されたと分析している。深海に眠る宝珠のごとく、神話の時代から密やかに受け継がれてきたその美徳は、様々な苦難の時に蘇り、無意識のうちに我々の行動規範となって、世界の人々に日本人の気高い精神性を知らしめた。
 今年は『古事記』編纂から1300年目の年にあたるという。あの美しい絵本はもう無いけれど、久々に祖国の成り立ちの神話をひもといて、神々とその子孫達の物語を読み返してみたいと思う。



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