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祈りの風景 祈りの風景

第十五回 綜芸種智院 -しゅげいしゅちいん-

湯通堂 法姫

 九州の大学を卒業した後、大学院に進学したいと申し出た時、父は、せっかく寺の娘に生まれたのだから、世間の学問をする前に先ずは仏教の勉強をするようにと言い、京都の東寺の一隅にある大学への編入を推めた。それは種智院大学という日本で最も古く最も小さな大学であった。

 天長五(828)年、弘法大師空海は、藤原三守の寄進を受けた左九条の邸宅を我が国初の民間教育施設として一般に開放し、儒仏道三教兼修の学問所「綜芸種智院」を創設した。種智院大学はこれを起源とする。
 平安初期、とりわけ嵯峨朝、淳和朝は、遣唐使船によってもたらされる大陸の新しい文物を貪欲に摂取する時代であった。唐風文化に強い関心を持つ嵯峨帝と、正統な密教文化のみならず治水や土木、天文や医学など最新の知識を請来した帰朝僧・空海との深い交流は、広く知られるところである。
 進取の気風溢れるこの時代、都には皇族および五位以上の諸臣の子弟を教育の対象とする「大学」が、諸国には郡司や地方豪族の子弟に教育を施す為の「国学」が設置され、国家を挙げての教育の普及が図られた。大学への修学希望者も増大し、勧学院(藤原氏)や弘文院(和気氏)など有力貴族が一族の子弟教育の場として設けた私学や、明経道(藤原家)、紀伝道(菅原家・大江家)など世襲の学問の継承を目的とする家学も登場した。
 しかし、こうした学問や教育への志向の高まりは、あくまで特定の上流階級に限られたものであった。一方で空海が設けた綜芸種智院は、貴族や僧侶ばかりでなく一般の民衆にも広く門戸を開いた日本初の教育機関として、日本の教育史上においても特筆されるものである。
 創設にあたって空海が上表した「綜芸種智院式并序」には、次の一文がある。
     大唐の城には坊坊に閭塾を置いてあまねく童稚を教え、懸懸に郷学を開いて広く青衿を導く。
   是のゆえに才子、城に満ち、藝士、国にてり。今この華城には但だ一つの大学のみあって
   閭塾あることなし。
 これは、国立の大学が既にあるのだから敢えて私学を建立する必要はないのではないかという意見に対する空海の答えである。
 大唐帝国の都・長安には区画ごとに児童を教育する学塾が配置され、地方の各県にも学校が設けられて学童を教え導いている。それゆえに才能ある若者が輩出され、有能な人々が国に満ちている。しかるに今、我が平安の都には但だ一つの大学があるだけで、その他の学塾は全くみられない。
かつて空海が留学し青春時代を過ごした大唐帝国は、アジアの冊封体制の中心に君臨し、その主都である長安は世界中の文物と先進文明が集結する国際都市であった。成熟した文化的風土の中で、学問や教育はもはや上流階級の占有物ではなく、知的向上心は市井の人々の中にも広く浸透しており、それは国の発展の大きな原動力ともなっていた。
 この上表文の中で、空海は、
    物の興廃は必ず人に由り、人の昇沈は定んで道に在り。大海は衆流にって以って深き
   ことを致し、蘚迷は積塵を待って高きことをなす。
と述べている。これは空海の教育理念として広く知られる言葉であり、種智院大学の建学の精神として今日に受け継がれている。すべての物事は、そこに関わる人によって栄え、また廃れるものである。人の人生はいかに道理をわきまえ、正しく学ぶかによって昇沈が決まる。大海は幾筋もの小さな川が流れ込むことによって深みを増し、高い山も教えきれぬ砂や塵を積み重ね、億劫の時間をかけてその高さを築く。
 国家や民族のみならず、あらゆる組織の盛衰は、それを担う人々によって決せられる。それゆえに、仏教によって生命の真理を知り、儒教、道教を通じて礼節と道理を学び、さらには医学、建築学など様々な俗世の学問を兼学して内外両面にわたる研鑚を重ねることで、真に一切の衆生を救済し、社会に貢献し得る人材を育成しようとしたのが綜芸種智院における試みであった。平安初期、日本という国家の黎明期に、貴賤道俗の区別なく平等に教育の門戸を開き、偏ることのない綜合的人格を育成する教育こそが国造りの根幹であると説いた空海の思想は、千二百年を経た現代においても色褪せることはない。

 仏教を勉強するよう推めた父の話しにはもう少し続きがある。あの時、父は私に、仏の道を学べば世間の学問など取るに足らぬということが分かる、と言った。そんなはずはないと若い私は心の中で思った。大学の史学科で古代日本の政治思想を専攻した私は、律令制度の導入と前後して受容された仏教が我が国の政治理念の中にどのように導入され、その後の日本の歴史にどのような影響を及ぼしたかということに強い興味を抱いていた。
 インドで生まれた仏教が、身分や階級など世俗の一切の価値を否定しながら、中国、朝鮮など伝翻した東洋の国々で、政治の波に呑まれ、幾度もの崇仏、棄仏の歴史を繰り返したのは何故か。そして、東の海の果ての小さな島国に辿り着き、千四百年もの長きに渡って連綿と継承されてきたのは何故か。古代日本の統治の歴史の中に、その理由を解明したいというのが大学院進学の目的であった。
 その為には仏教の勉強をしておくのも悪くないと種智院大学に編入したものの、これまでの知識を一度リセットして、真っ白な気持ちで仏教を勉強してみてはどうかという指導教授の言葉に感銘を受け、歴史学の視点を捨てて一から仏教を学ぶことにした。
 釈尊が声聞しょうもん達に与えた教説を忠実に再現しようとした初期仏教。釈尊の悟りの境地を哲学的に理解し、衆生済度を修行の目的とする菩薩行を理想とした大乗仏教。そして一切衆生が仏性を内蔵した存在であり、凡夫もまた今生において成仏できると説いた密教。その膨大な知的体系に私は圧倒され、魅了された。
 真言宗の寺に生まれ、朝夕の読経と香華の中で、世俗の掟よりも仏法の戒めを重んじる両親に育てられた私にとって、仏教は高遇な思想でも深遠な哲学でもなく、日常の生活の一部のようなものであった。大学で仏教および密教を学問として学んだことで、門前の小僧として聞き覚え、日々読誦してきた経典の教理が理論として心の奥深くに根付き、その後の私の人生の精神的支柱となった。
 四門出遊の物語に説かれるように、今生は苦しみに満ちている。人は生まれる時や場所を選ぶことも、何時いつ何処どこで、如何いかに死ぬかということを決めることもできない。ただ我々に許されているのは、有難くも人の身を享けたこの人生を、如何に生ききるかということのみである。
 仏教は生死しょうじことわりを理解し、様々な苦しみとあるがままに向き合い、運命を受け容れてゆく生き方を説く。誰もが人生の途上で、愛憎や悔恨の炎に焼かれ、絶望の樹海を彷徨さまよう。地底から吹き上げる冷たく虚しい風に吹かれる時、仏教の教えは、北天に輝く星のように揺るぎない道標となる。

 この春、久々に私は聴講生として母校の教室に座った。私が通った頃の学舎はもう無いが、二十年近い歳月を超え、場所を変えて、私は再び仏教を学ぶ機会を得ることとなった。そこには、若い学部生に混じって、二十人以上の社会人が机を並べていた。かつて企業戦士として第一線で活躍していた男性や長年にわたってボランティア活動を行ってきた主婦、翻訳家やカメラマン、そして僧侶など、職業も年齢も様々に異なる人々が、十八世紀のチベット密教の学僧が著した経疏を学ぶ為に、この教室に集っている。なかには週に一度の九十分の授業の為に、片道四時間をかけて通う人もあるという。その熱い求道の空間は、平安の昔、弘法大師空海が在りし日の綜芸種智院の光景と重なって見える気がする。
 不惑を超える歳まで生きて、幾度もの挫折を味わい、悲しみに心を奪われたり絶望に押し潰されそうになった時も、自分の矜時を見失うことなく生きられたのは、若い日に学んだ仏教の哲学と幼い日に父母から受け継いだ仏教徒としての自覚があったからである。 人生の年輪を積み重ねて、再び学びなおす仏教は、二十代の頃とは異なる地平を見せてくれるに違いない。人生の学としての遥かに遠い地平を目指しながら、自らの中にあるという仏性の種子が芽吹き、花開くのを待ちたいと思う。



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