諸の弟子らに語(つ)ぐ。
およそ出家修道はもと仏果を期す。
あにいわんや人間(じんかん)少々の果をや。

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お大師様のことば お大師様のことば

お大師様のことば(六十一)

大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
智山専修学院長・東京成就院長老
福田 亮成



 私はいつも酒席が苦手である。それは、酒があまり飲めないからであります。酒が飲めないということは、返杯ができず、まったく気のきかない人間ということになってしまいます。そして、それがこうずると変人へんじんとまでいわれてきます。反対に酒席の得意な人は、話のわかる人だ、人物だ、組織をうごかせる人だ、仲間を大切にする人だ等と評価が高いのであります。
 お大師さまは、ここでそんな低次元のことを云っているはずがありません。ここで、この句の導入部分をふりかえってみれば、その真意がわかろうというものです。「それ仏法はるかにあらず、心中にしてすなわち近し。真如外にあらず、身を棄てていずくんか求めん。迷悟われに在れば発心すればすなわち到る。明暗他にあらざれば信修すればたちまちに證す。哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子。苦しいかな、痛しいかな」とあり、その次にこの言葉があります。 仏法とは自身に求めるべきであることにまったく気がつかず、まちがった方向に求めたずねている。その人を「痛狂、酷睡」といっているのであります。この方向に歩いている人こそが正しいと思いこんでいる人にとって、対面してちがう人びとにたいして笑い、そしてあざけるという珍妙なことがおこってきます。
 右往左往の日常生活の中で、私達はまさに生きる方向を見失っていることが自覚されます。お大師さまが、「還源げんげんを思とす」と云っておられますが、お大師さまにとっても、生きる方向にたえず思いをいたしていたのではないでしょうか。
 私達も、お大師さまから、苦しいかな、痛しいかな、といわれないように自身の点検を怠ってはなりません。



六大新報 第四三三四号 掲載



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