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水面の月 水面の月

第三回 師と弟子~ミスター入中論のこと~

清風学園 専務理事
平岡 宏一

 昨年、チベットのラマ、ロサン・デレ阿闍梨をお迎えして行われたチベット密教の灌頂は、大覚寺での大威徳明王、當麻寺でのダキニ天の灌頂の両方で、のべ140名の方々に入檀して頂いた。全国から参集して下さった受者の皆様、快く会場を提供して下さった大覚寺、當麻寺中之坊の皆様、主催者であるサマヤプロジェクト21の関係者の皆様に、心よりお礼申し上げる。

 さて、この「ミスター入中論」という異名を持つチベットのラマ、ロサン・デレ阿闍梨が、昨年末の2ケ月間、我が家にホームステイされた。今回は、この2ヶ月のあいだ師の近くにあって、教えられたり感じたりしたことを書かせて頂こうと思う。
 ロサン・デレ阿闍梨と私の出会いは1988年のことである。当時、私はインドに亡命したゲルク派の密教の総本山ギュメ寺に留学中であった。最初に阿闍梨の姿を見たときのことはよく憶えている。親しくしていたギュメ寺の僧が、本堂で問答をする阿闍梨を指して「あれが有名なミスター入中論だ」と教えてくれたからだ。その後、当時のギュメ寺の副管長の計らいによって、約3ヶ月にあいだ毎日、憧れの阿闍梨からツォンカパの『入中論』の注釈書を解説して頂くこととなった。当時はもっと痩せていらっしゃったが、講義の仕方は今と全く同じで、私が疲れてきたと見抜くと、さりげなく面白い仏教のエピソードを話して心を解きほぐして下さり、それから、また集中を取り戻させて講義に引き込むというスタイルであった。今回の灌頂でもこのやり方を遺憾なく発揮されたが、後でお聞きしたところ、このスタイルは、お師匠様譲りのものだという。
 阿闍梨のお師匠様は、ロサン・ワンチュクというセラ寺チュ学堂の貫主で、ダライラマ14世の師匠の一人でもある高僧であった。そのロサン・ワンチュク師から最も可愛がられた弟子がデレ阿闍梨である。

 高野山には、「麓の修行より、高野の昼寝」という言葉がある。自坊で修行するより、高野山で高徳の僧侶に囲まれての生活の方が学ぶことが多いという意味だと思うが、阿闍梨との日常のなにげない雑談も同様で、単なる雑談ではなく、仏教の見識が随所に埋蔵されていて、学ぶことが多かった。その多くはワンチュク師から阿闍梨が聴かされたお話であったが、中でもとても印象に残ったのは、「法に対して、簡単に満足してはいけない」というお話だった。内容を簡単に説明すると、我々は物質的なものに対しては飽くことの無い渇望があるのに、仏法に関しては、“この灌頂は以前受けたからもう必要ない”とか、“この説法は以前聴いたから、もう聴かなくてもいい”というように、簡単に満足してしまう人が多い。それは仏法にふれる機会を自ら逃しているのと等しく、たいへん勿体ない行為であるということであった。
 仏教の目的は、自らの心の在り方を変えていくことであるということは前回も述べた。実際、同じ行為でも心の在り方によって積む徳は異なる。同じ行為をしても、生きとし生けるものの為に精進する菩薩と、自分のことで手一杯の凡夫とでは違うのだ。また同様に、同じ人間の同じ行為でも、心の在り方で積む徳は変わってくる。例えば、目の前の困っている人に対して、心から何とかしてあげたいという気持ちで行う行為は福徳を積むであろうが、後で何かしらの見返りを期待して行う行動は、決して徳を積む行為とはいえないであろう。
 心の在り方は微妙なものだ。一度お説教を聴いたぐらいでは簡単に人の心は変りはしない。
だが、何度も灌頂を受け、何度も説教を聴くことで仏教の教えに心を徐々になじませていくことができれば、必ず心は善き方に変わっていくと阿闍梨はおっしゃる。だから、仏法は簡単に満足して、打ち捨ててはいけないというのだ。
 かつて、ワンチュク師が『五次第を明らかにする灯明』という、ツォンカパの秘密集会タントラの注釈を説法された時、多くのゲシェー〔仏教博士〕が聴聞に訪れた。その中に混じって、まだ一般大乗仏教の勉強中であった阿闍梨も参加することが許された。当時は、難解すぎてさっぱり分からなかったというが、何回も説法を聞くことが大切であるという師匠の指示であったという。

 朝から晩まで弟子達に講義をする毎日のなかで、ある時、お師匠様が阿闍梨に次のようにおっしゃったという。
 「お前もやがて“こんなに分かりの悪い弟子たちに教えていても意味は無い。それよりは山に篭って独りで修行をしよう”と思う日が必ず来るだろう。しかしそう考えるのは誤りだ。何度も説いて弟子達の心に仏教をなじませていくことが肝要である。衆生の教化とはそういうものだ。即身成仏など簡単に出来るものではない。我々はこういうことをやって、しっかり徳積みをさせて頂くのだ。それを忘れてはいけない」
 はたして阿闍梨も指導者の立場に立った時、師匠が言っていた通りの心境になったが、師の言葉を思い出し、自分を戒めたという。
 ところで、秘密集会タントラの注釈の説法までされていたワンチュク師は密教の権威でもあった。しかし、そのお師匠様が毎日の勤行をなさっている様子が無かったと聞いたときは、私はとても驚いた。毎日の勤行をしないチベットの僧侶というのを見たことがなかったからである。阿闍梨はそんな私の驚きをよそに、「すべて暗記していて、我々弟子が分からないところでなさっていたのかもしれないが、毎日の勤行が必要なのは生起次第の段階の行者で、究竟次第の段階に至ると毎日の勤行は必要ない。もしかしたら師匠は究竟次第の段階に既に入っておられたのでないか」と静かに言われた。少し専門的な補足をすると、生起次第の段階では、毎日、欠かさず決まった観想をしながら、次第を読誦する必要がある。しかし生起次第を成満して究竟次第の段階に入ると、大楽が鎮まることなく生起し続け、実際の曼荼羅も観想だけでなく実際に自由に胸から流出したり、収斂したり出来るようになるといわれる。そのため、毎日の次第の読誦は必要ないとされるのである。ツォンカパはこれについて、「向こう岸に渡れば、船を置くが、そこに至るまでは〔船に〕よらなくてはならないように、〔観想中心の生起次第を成満し、〕真実の、即ち観想しただけではない究竟次第の境地を得たならば、生起次第を捨ててもよい」と述べている。
 通常、何十年ものあいだ生活を共にすると、生身の人間としての側面が記憶に残ってしまうものである。実際のところ、ワンチュク師がその境地に至っていたか否かは私にはわからない。しかしながら、長年にわたって仕えた弟子に、そうした強い尊敬の念を抱かせ続けた師と弟子との関係性に私は感動した。阿闍梨のお話を聞くにつけ、仏教とは、弟子が師匠の謦咳に触れ、師匠が自分の生き方を通して体現し、弟子に師資相承で伝えていくものだと強く感じる。仏教は文字の上だけで学べるものではないのだ。

 私は真言宗の宗徒だが、時々、何故チベット密教なのかと問われることがある。しかし、仏教は普遍的真理であり、それを体現する境地に至った者には、凡夫でも分かる共通性があり、国境や人種は関係無いと私は確信している。チベットの高僧と深く付き合うと、私は何故か弘法大師を想像してしまうのである。無論、今日の日本にも立派な僧侶が多くいらっしゃることは承知している。だが私は、チベット密教の高僧の生き方に触れる時、この延長線上に弘法大師がいらっしゃるような気がするのである。それが、私がチベットの高僧方に強く惹かれ続ける理由でもある。



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