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祈りの風景 祈りの風景

第五回 玉響 -たまゆら-

湯通堂 法姫

 我が国で初めて時計台を築き、時刻を定めたのは天智天皇であるといわれている。『日本書紀』斉明天皇6(660)年5月条には、
   皇太子、初めて漏剋ろうこくを造り、民をして時を知らしむ。
と記されている。漏剋とは、容器に入れた水の流出の一定量で、過ぎた時間を計測する水時計のことである。
 昭和51年(1976)年に奈良県明日香村で出土した時計台と思われる建物は、綿密かつ堅固な二階建ての設計で、地下に配置した木桶や銅管から時計を動かす水を取り込む仕組みになっていた。一階部分には黒漆塗りの木製水槽を用いた水時計装置を備え、二階部分には、時を告げる鐘や時刻を補正する為の天文観測装置が置かれていたと推定され、前述の記述を裏付ける遺跡であるとされた。

 皇極天皇4(645)年の乙巳いっしの変において、当時専横を極めた蘇我宗家を倒し、その後も熾烈しれつな権力抗争を戦い、大化の改新を主導して強力な中央集権国家を築いた天智天皇が目指したのは、大唐帝国を中心とした東アジアの冊封体制とは一線を画す、独自の国家体制の構築に他ならなかった。
 日本が、諸豪族の連合政治体制から脱却し、律令制による中央集権的国家体制の確立を志向した時代、その範とした唐に模って、明確な時刻のもとにまつりごとや人々の生活など国の在り方そのものを秩序ある形に整えてゆく為に、この水時計は大きな役割を担ったことであろう。
 一切の国土と人民が天皇に帰属すると定めた「公地公民」、日本初の戸籍である「庚午年籍こうごねんじゃく」の作成や、安定した国家財政の確保を目的とした「租庸調」の税制など、大化改新によって導入された施策は、古代日本の国家的な礎となった。
 白村江はくすきのえの戦いでの敗北や、改新によって既得権を喪失した諸豪族の抵抗など、天皇の治世は決して平安なものではなかった。内政の充実と国防の強化に明け暮れる中で、天皇は再び時計台の建設に着手する。天智天皇10(671)年4月25日の項には
  漏刻ろうこくを新しきうてなに置く。始めて候時ときを打つ。鐘鼓かねつづみとどろかす。始めて漏刻を用いる。
と伝えられている。崩御の僅か半年前のことであった。この4月25日が太陽暦に換算すると6月10日にあたることから、この日が「時の記念日」と制定されたのは、大正9(1920)年になってからのことである。

 天智天皇の、天皇としての在位は5年ほどの短いものであった。琵琶湖を望む近江の地に遷宮して即位し、大江おうみ大津宮おおつのみやの天皇すめらみことと称された。白村江はくすきのえの戦いに敗れ、国を追われた多くの百済人達を受け容れて氏姓うじかばねを与え、彼らは大陸の進んだ文明を我が国にもたらした。この水時計も、そのひとつであったに違いない。
 農耕民族である日本人にとって、清らかで豊かな水は聖なる生命の象徴でもあった。人々は水の神を祀り、水によって自らの心身の汚れを浄められると信じた。
 天から降った雨が大地を潤し、清浄な湧水となって幾筋もの川を流れて海に至り、海の水が霧となって再び空に還り、また恵みの雨をもたらすように、人の生命も生まれかわり死にかわり、悠久の時に抱かれて循環する。
 波乱に満ちた人生の最期に、天皇は何を想い、新しい水時計を造ることを命じたのだろうか? 清らかな水で永遠の時を刻むこの時計に、天皇はどんな夢を託したのだろうか?

 イギリスには「真実は時の娘(Truth is the daughter of time)」という古いことわざがある。大学で歴史学を学ぶ学生の頃、私はこの言葉を知った。洋の東西を問わず、国の公の歴史書に書かれることは勝者の歴史であり、時の為政者の為の物語である。王座を得る為に愛する者を殺さねばならなかった者、政争に敗れ悪人の烙印を押された者……。勝者には勝者の悲しみがあり、敗者には敗者の哀しみがある。歴史学とは、冷静な目と囚われのない心でその時代の価値観を共有し、祖先達が繰り広げた人生の営みをひもとく作業である。
 この世界には「時」という神がいると私は確信している。言い換えればそれは歴史という名の神かもしれない。いつの世も、人の唱える大義は身勝手で、昨日の正義が明日もまた正義であるとは限らない。だが時の神は、勝者の上にも敗者の上にも平等に訪れ、後世の我々に歴史の真実を顕かにする。年月を経て、卑怯に名声を得た者よりも誇り高く汚名を負って死んだ者に光があてられるように。
 若い日、いわれのない中傷を受けたり、誤解や裏切りや、様々な困難に出会って、自分の矜持きょうじを見失いそうになった時、私は呪文のように心の中で繰り返した。真実は時の娘、真実は時の娘、いつか必ず真実は顕かになる ――― 。

 梅雨の中休みの月のない夜、かつて近江大津宮があったといわれる琵琶湖のほとりには無数の蛍が舞う。蛍という名は「火垂る」という言葉に由来するという。乱舞する蛍の光が、古えの人々にはあたかも天下った星のように見えたのかもしれない。
 美しい清流にしか生息できぬ蛍は、長い地中での生命に比べて地上で生きる時間は殊更ことさらに短い。短い生命を、自らの身を焦がして飛ぶ様は幻想的で、古くは水の神の使いとも考えられた。
 湖面を吹きわたる風に葦の原がそよぎ、宵闇の中に天下った星とおぼしき蛍の光が舞う光景は、この地に都があった千三百年の昔と同じだろうか? この地を愛した万葉人の魂は、時を超えて、この美しく儚い地上の星となって戻ってきたのだろうか?
 人の人生もまた、悠久の時の流れの中では一瞬の星の煌きにすぎぬほど短く儚い。父母のそのまた父母と連なる名も知らぬ遠い祖先達の、その玉響たまゆらの生命を生き継いで、今、ここに私は生きている。そう思えば、今生で出逢う人はすべて愛しく、悲しみも苦悩も、すべては煌く人生の彩りとなる。
 いつの日か、私の人生も歴史の一部となる日が来る。その日まで、名も無き小さな星の生命を、いつくしみいとおしんで生きてゆこう。限りある玉響たまゆらの時を大切に積み重ね、縁あって出逢ったすべての人に誠を尽くし、時の神の前に恥じることのない人生をまっとうしたいと願うのだ。



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