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祈りの風景 祈りの風景

第九回 望郷 -ぼうきょう-

湯通堂 法姫

 シベリアの永久凍土の中から発見された植物の種子を、特殊な方法で培養し開花させることに、ロシアの研究チームが成功したという。
 年間の平均気温が氷点下7度というシベリア東北部の地下38メートルの穴の中で、三万年の間、眠り続けていたその種子は、「スガワラビランジ」と呼ばれるナデシコ科の植物で、五枚の白い花弁が可憐な、美しい花を咲かせた。
 シベリアという言葉の響きには、幼い日の記憶が重なり合う。生来、寒がりの私には冬は苦手な季節であった。冷え込んだ朝、布団の温もりから離れられず、学校に遅刻しそうになった時など、父はいつもこう言って私を叱った。
 「こんな寒さで甘ったれるな。シベリアで死んでいった兵隊達の無念を思え。」
 小学生の子供には、シベリアが如何なる場所か、死んでいった兵隊たちの無念とは何か、想像さえつかなかったが、父の厳しい口調には口答えできない重々しさがあって、幼い私は黙りこんだ。その時の父の目の奥に宿った哀しみの色は、頬を刺す北風の冷たさや手足の霜焼けの痛みと共に、大人になった今でも遠い冬の日の記憶に刻み込まれている。

 大正生まれの父は大のロシア嫌いであった。私がトルストイやドストエフスキーを読んだり、ロシア民謡を口ずさんだりすることを快くは思っていないふしがあった。理不尽に思える父のロシア嫌いの理由を知ったのは、中学生になってからである。
 第二次世界大戦の戦局も極まった1945年4月、独ソ不可侵条約を一方的に破棄したソビエト軍は、ウィーンに入城し、5月にはベルリンを占領した。7月のポツダム会談を経て、8月8日に日本に宣戦布告したスターリンは、翌9日未明には満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じ、満州帝国および日本領朝鮮半島北部へ軍事侵攻した。日本がポツダム宣言受諾を表明した14日以降も進撃を続け、18日に千島列島最北の占守島しゅむしゅとうに上陸し、1946年2月に千島、樺太の領有を宣言した。

   その後、ソ連軍占領下の満州から、多くの日本軍将兵と満蒙開拓団などの在満民間人が捕虜としてシベリアや極東各地の収容所へ送られ、過酷な強制労働に従事させられることとなった。世に言う「シベリア抑留」である。
 厚生労働省によると、約58万人の捕虜が、最長で11年の長きにわたって、1200ヶ所以上の強制収容所に抑留され、約6万人が飢えや寒さの為に死亡したという。酷寒の地で、非人道的な強制労働を課せられ命を落としていった人々の多くは、今なおシベリアの凍てつく大地に眠っている。1991年の日ソ協定によって始まった遺骨収集事業で、これまでに一万八千体余りの遺骨が日本に帰還したものの、DNA鑑定などで身元が判明し、遺族の下に帰ることができたのは千二百人に満たないといわれている。
 若くして大陸に渡り、戦前の満州で青春時代を過ごした父にとって、戦争というもののさがとはいえ、日ソ中立条約を破って満州に侵攻し、同朋を蹂躙したソ連という国は許し難いものであったろうし、「ダモイ・トウキョウ(東京へ帰る)」という言葉を信じて貨物列車に乗り、シベリアの強制収容所に送られ、死んでいった兵士達の運命は、決して他人事とは思えなかったに違いない。
 日没の早い冬の夕暮れ時、中学校の暗い図書室で、私は初めて父の言葉の意味を理解した。国を守る為、愛する者を守る為に戦い、捕われて遠い異国の地で死んでいった人々の苦しみと、彼らを待ち続けた家族の悲しみに押し潰されそうになったことを覚えている。

 立春が過ぎ、春とは名ばかりの寒波が到来した頃、福島の友人から久方ぶりの便りが届いた。年賀の欠礼を詫びる言葉の後に、昨春の震災に伴う原発事故で避難を余儀なくされ、故郷を離れざるをえなかったこと、冬の初めに住み慣れぬ地で老いた父親を死なせてしまったことが記されていた。
 亡くなった父親はシベリアからの帰還兵であった。若い陸軍士官であった彼は終戦を満州で迎え、部下の兵士と共にソ連軍に投降して捕虜となり、シベリアに送られた。数年間の抑留生活を生き延びて日本に帰り、郷里に戻って家業を継いだ。
 高度経済成長期の日本に育った友人にとって、シベリア帰りの寡黙な父親は、理解し合えない存在であった。それでも、生前、酒も煙草もコーヒーさえも贅沢だと言って遠ざけ、趣味や楽しみから顔を背けるように生きた父親が、時折、小さな声で日本の唱歌を口ずさんでいたことを彼は覚えていた。長く苦しい異国での歳月、愛する者の待つ祖国に帰ることだけを願って生きぬいた父親の人生の最期を、故郷の地で迎えさせてやれなかった悔いと、いつか必ず父親の魂をつれて故郷に帰りたいという、望郷の祈りにも似た言葉を連ねた手紙の最後は、その歌の一節でしめくくられていた。
  志を果たして いつの日にか帰らむ  山は青き故郷 水は清き故郷

 故郷を恋うる心は、民族や文化の違いに関わらず、人なればこそ抱く切ない感情である。とりわけ農耕民族である日本人にとって、父祖伝来の地を受け継ぎ、守り、子孫に伝えてゆくことは、遺伝子の中に刻みこまれた潜在意識のようなものである。
 平和な時代の日本という国に生まれた私達は、大国のエゴによって国を失ったり、内紛や政争で祖国を追われたりする苦しみに出逢うことなく生きてきた。だが、今なお世界の様々な場所で、親を殺され子を奪われ、生れ育った土地を踏みにじられる人々がいることも知っている。
 自らの意思にかかわらず、愛する者を喪い、故郷を去らねばならぬ苦悩は、平時にも訪れる。まるで空気か水のように、あるべきものとして享受してきた平安が、如何いかに儚く、かけがえのない幸せであったのかということを、東北の震災と津波、それに伴う原発事故は、私達に教えた。
 あの日、未曾有の天災に遭遇しながら、守るべきものの為に戦い続けた人々の、健気で沈着な振る舞いは、世界に日本人の美徳を示した。北国の人は殊更に我慢強く慎ましいといわれる。それは、雪に閉ざされた暗く長い冬を耐え、痩せた大地を切り拓いてきた彼らの祖先から受け継いだ貴い気質である。
 あれからやがて一年。例年にない寒波と豪雪をもたらした冬も終わり、弔いの春が巡り来る。雪のように降り積もった哀しみを溶かすには、幾度の季節を重ねたらよいのだろうか。懐かしい故郷の山河に、彼らが戻るのはいつのことだろうか。
 それでも秘かに私は信じるのだ。凍てついた心の底に、誰もが白い花の種子を抱いているに違いないと。小さく可憐な、その花の名は希望だ。三万年の時を超えて花開いたナデシコのように、いつの日か、傷つき引き裂かれた大地いっぱいに、新しい生命が芽吹き、美しい花を咲かせる季節がきっと訪れる。そして、幼い日、妹たちと歌った唄を祈るように口ずさむ。春よ、来い。はやく来い。



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