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第十回 転生 -てんしょう-
湯通堂 法姫
勅撰和歌集『拾遺和歌集』には、奈良時代に二人の高僧が取り交わした和歌が収められている。
返歌
「
霊鷲山も迦毘羅衛も、釈尊が法を説いたといわれる仏教の聖地である。初対面の二人の僧は、遠い過去世、釈尊の説法を聴き、共に修行した菩薩であった。行基に対し「文殊の御顔」と讃えた菩提遷那には、文殊菩薩と一対で釈迦如来の
来日後、菩提遷那は奈良の大安寺に住し、修行と布教活動を行った。とりわけ『
行基は、大仏開眼を見ることなく天平勝宝二(749)年に
東大寺は、幼くして亡くなった聖武天皇の皇太子の菩提追修のために建てられた金鐘山寺を起源とし、大和国金光明寺(国分寺)を前身とする日本の総国分寺である。三論、成実、法相、俱舎、華厳、律の六宗の宗所が設けられ、仏教の教理研究に大きな役割を担った。平安時代には天台、真言を加えた「八宗兼学」の学問寺として、以降の日本の仏教界を牽引する優れた学僧を輩出した。
聖武天皇が、近江
聖武天皇の治世は、藤原氏との政治抗争から生じた左大臣長屋王の変(729年)や、玄昉、吉備真備の追放を奏上して挙兵した太宰少弐藤原広嗣の反乱など、不安定な政局に加えて、天平六(734)年の近畿大地震や絶え間なくおこる旱魃や飢饉、疫病などの天災に悩まされ続けた。
とりわけ天平七(735)年と九(737)年に大流行した天然痘は、凄まじい猛威をふるい、死者は百万とも百五十万ともいわれた。長屋王の変以降、政権の中枢にあった藤原四兄弟も相継いで罹患し他界した為、朝廷の統治機構は崩壊の危機に瀕した。
この絶望的な状況の中で、天皇は、全国に国分寺、国分尼寺を造立し、『
人智をはるかに超えた苦しみは、もはや仏の慈悲に頼るほかには
天平勝宝四(752)年四月の盧舎那仏開眼供養会は、欽明天皇十三(552)年の仏教公伝から数えて二百年目の盛儀であった。聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする皇族、貴族達が列席する中、婆羅門僧正菩提僊那が開眼導師を、大安寺の隆尊律師が講師を、元興寺の延福法師が読師を務め、一万五千におよぶ人々が結縁に連なったという。
『続日本紀』天平勝宝四年夏四月条には、「仏伝東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」と記されており、大仏殿の前庭にはためく絢爛な幡や、次々と奉納される五節舞、伎楽、唐古楽や高麗楽など、華麗で国際的な法会の様子と当時の官人達の感動を文面から読み取ることができる。
この法会に出仕、列席した万僧の交名(名簿)は、正倉院文書に残されており、開眼に用いられた筆(天平宝物筆)と筆に結んで参列者に
東大寺本坊を道場とし、チベット密教の高僧を迎えて観世音菩薩の
許可灌頂とは、本尊が具有する
観世音菩薩の本性は慈悲である。慈悲とは慈(他者の幸福を望む心)と悲(他者の苦しみを取り除きたいと願う心)から成り、生きとし生けるものに対する普遍的な慈しみと憐れみの心を因として生じる。幾度もの
密教は、瞑想によるイメージトレーニングを重ねることによって心身を安定させ、心の段階を高め、心身ともに仏に近づけてゆくための修行を重視する。阿闍梨の説法によって、今生のみならず過去世にまで辿って自らの悪行を懺悔し、すべての生き物への慈悲の心を生ぜしめた受者達は、
この灌頂は、正式には「
夕刻、灌頂を受け終えたばかりの受者達は阿闍梨とともに大仏殿を参拝した。この日は初夏と紛うほどの、爽やかな晴天に恵まれた美しい一日であった。中門をくぐり、大仏殿の前庭を進みながら、私は体の奥深くからこみ上げるような懐かしさを感じ、戸惑った。それは、今生の記憶ではなく、遠い遠い過去世につながる記憶のようなものであった。
東大寺教学執事橋村公英師の格別の御厚意で、百二十名の受者全員が、盧舎那仏の須弥檀に登檀し、礼拝することを許された。阿闍梨と随行の二人の弟子による読経が始まると、皆が誰からともなく
仏教は、釈尊の祖国であるインドにも、政治的な棄仏を繰り返した中国、朝鮮にも根付くことなく、遥か東の海の果ての小さな島国に辿り着き、安住の地を得た。仏教という教えを護り、生命をかけて日本にもたらした多くの人々、法灯を絶やさぬ為に人生を捧げた人々、仏教は、こうした多くの菩薩達によってこの国に根付き、千四百年にわたり、日本人の精神文化の中に連綿と受け継がれてきたのだ。
三人のチベット僧もまた、祖国の地を追われ、亡命を余儀なくされた人々である。ローサン・デレ阿闍梨は一九五九年三月のチベット動乱の際に侵入してきた中国軍と戦った少年僧の一人であった。彼は幼かったため銃を射つことはできなかったが、兄弟子は銃をもって中国軍と戦い、仲間達を守ってインドに逃れ
今日、彼らの祖国は隣国の蹂躙を受け、多くの寺院が破壊され、僧侶は説法を禁じられ、民衆は信仰の自由を奪われていると聞く。だが、彼らが生命を賭して守ろうとしたチベット密教の教えは、国境を越えて様々な地に利他の種子を落としている。釈尊の祖国が地上から消えてもなお、仏教の教えが国を超えて広がったように、チベット密教の教えが受け継がれる限り、そこに彼らの国は存在するのだ。
天平の大仏開眼供養会から千二百六十年目の春、東大寺大仏殿でともに祈りを捧げた人々は、おそらく遠い過去世からの因縁に導かれて盧舎那仏の御前に会したに違いない。ある人は砂漠を超え、海を渡って仏典をもたらした来日僧であったかもしれず、ある人は大仏造立の為に奔走した名もなき僧尼であったかもしれず、またある人は造像工事に従事した民の一人であったかもしれぬ。大仏殿の前庭でのあの不思議な感覚は、かつてこの地に生きた日があったことの証しかもしれないと密かに思った。
限りない慈悲と哀しみを秘めた盧舎那仏の御前で、私は阿闍梨から授けられた真言の一節を心の内で唱えた。
「願わくは この善行を以って 速やかに この身が仏の力を成就し 一切衆生を余すところなく救い仏の境界に導かせ給はんことを。」
どうか、今日ともに祈ったすべての人々に幸いがもたらされますように。祖国の大地と民族の信仰を奪われようとしている彼の国の人々に仏の御加護がありますように。そしていつの世にか再び人として生れ、仏法に出逢い、御身の御許に導かれますように。