お大師様のことば(六十七)
大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
智山専修学院長・東京成就院長老
福田 亮成
この頃、菩提心ということを考えております。発菩提心とすれば、さとりを求める心を
如来の教えは、もうすでにあたえられているものであります。それをどのように自身が受けとっていくのか、という実に厳しい状況のなかで、菩提心ということを問いなおしてみますと、すでにあたえられている教えと、それを受取ろうとする心の間には、静寂のなかでというより、激烈な緊張感のなかで、推移していくものではないでしょうか。
いってみれば、仏をもとめる心とは、静かに自心のなかにかもしだされてくるものというよりは、教えと自身との対決のなかで、強い問いの形としてあらわれでるものこそ、菩提心ということではなかろうかと考えるものであります。
私も僧侶の
「菩提心を因となし、大悲を根となし、方便を究竟となす。これ真言行者の用心なり」(『秘蔵記』)。さらに「菩提心所起の願行及び三業ことごとくみな平等にして一切処に遍ず」(『秘密三昧耶仏戒儀』)をあげてみましたが、これらからも、教えにたちむかう、それを知ろうとする強い意志というように動的にとらえる必要を強く述べているのではないでしょうか。『菩提心論』に説かれます勝義・行願・三摩地の三種菩提心をあらためて考えてみたいものです。
深い禅定を修するのも、菩提心の発露であることを。
六大新報 第四三五十号 掲載