諸の弟子らに語(つ)ぐ。
およそ出家修道はもと仏果を期す。
あにいわんや人間(じんかん)少々の果をや。

入会規約はこちら (PDF: 87KB)

【PDF: 94KB】

お大師様のことば お大師様のことば

お大師様のことば(七十六)

大正大学名誉教授・種智院大学客員教授
東京成就院長老
福田 亮成



 この文は、“平等”ということを説く一部分であります。即ち、身語心の三密平等の平等ということでありまして、法身如来のそれと私達の身語心が平等であるということにちがいありません。このことは、お大師さまの教えの基本となるものであります。密教とは諸佛菩薩の多様化が一つの特徴といえます。多くの諸佛菩薩が佛・蓮・金の三部に系列化されます。佛とは何んぞや、という問いから、佛とは智慧と慈悲であるという答えがなされ、仏陀を中心として金剛杵(智慧)を手にするもの、蓮花(慈悲)を手にするものとの三尊による表現形式が登場してきます。それが三部構成ということで、胎蔵生曼荼羅たいぞうしょうまんだらの中心をしめることになりました。
 さて、無数の佛は、一衆生の佛である、ということを考えてみましょう。一衆生の佛とは、自心佛ということであり、佛達のすべてが自心の内に蔵している佛のことであります。その自心佛が無量の佛と関係を有し、それが平等平等であるということであります。それはまるで私達一人一人の存在が、地球上のすべての人びとと有機的な関係であるということと同じであります。
 更に、お大師さまの言葉に、 諸佛は遍法界へんほっかいの身なれば、わが身、諸佛の身中に在り。わが身、遍法界の身なれば、諸佛の身、わが身中に在り。  とありますが、同じ意味を述べたものでありましょう。私達の一人一人は、法身大日如来に包み込まれかつ自立していると受取ってみますと、私達の日常生活の中に蔓延まんえんしております夥しい人間に関する差別や区別は、本来正しくないものだという視点を定めて生きること、それがどうしようもない差別の現実を打ち破る唯一の方法であるにちがいありません。



第四三七四号 掲載



≪ 一覧へ戻る

HOME | お知らせ | 活動内容 | 法人概要 | お問い合せ | お大師様のことば | 水面の月 | 祈りの風景 | イベント情報 | ブログ「SHOJIN」 | 入会申込書(PDF)